私どもはここ北穂高の青木花見(あおけみ)という地で明治11年(1878年)に創業しました。下の写真は昭和の終わり頃、当家の北の離れの二階から自家の養殖池を写したものです。かつて北穂高では養鯉業が盛んに行われ、至る所に鯉池が広がっておりました。現在も残るその唯一の痕跡が丸山鯉屋なのでございます。ここでは、近代以降、常に当家の歴史と共にあった北穂高養鯉の盛衰を簡単にご紹介させて下さい。

歴史

北穂高の養鯉業の歴史は江戸末期に始まる。大正十年発行『北穂高村誌』によれば、「由来北穂高ノ地ハ…清冽ナル水湧出シ…殆ド用水ノ混濁スルコトナク…冬夏水温大差ナク養鯉ニ適当ノ地ナリシ故」、鯉仔(コイゴ:鯉の稚魚)を飼養する者が次第に増えていったという。そして、明治初期には、病気の人に与える「栄養品」としての需要も見込んで、青木花見を中心とする北穂高の地に、十数軒の養鯉業者が並立する一大養鯉ブームが起こった。

生産過剰に陥り、その後一時期衰退した北穂高養鯉の中興の祖ともいえる人物が、丸山悦十である。丸山鯉屋の現当主・隆彦氏から数えて四代前にあたる。悦十は三千坪の養殖池を造成、「大奮闘的飼育ヲナシ」、明治二十五年、他の養鯉業者九名と共に「安曇共同販売所」を設立、生産調整と販売の一本化による北穂高養鯉の立て直しに成功した。

「安曇共同販売所」は、その後、組合へと発展するが、組合基盤が強固だった明治後期から大正年間にかけてが、北穂高養鯉の最盛期でもあった。農家が田植え前の水田に鯉仔を放ち、九月頃取り上げ自家消費する「水田養鯉」が全国的に行われ始めたのもこの頃である。

しかし、昭和恐慌・太平洋戦争を経て生産量は激減、養鯉業者にも転廃業するものが出始める。それでも、昭和二十年代まで水田養鯉は行われ、鯉仔生産地としての北穂高養鯉は辛うじて命脈を保っていた。ところが、昭和三十年代になると、農薬と化学肥料の導入による水田環境の急激な変化で需要は年々減少、昭和四十年代にかけ、北穂高養鯉は丸山家ただ一軒を残し終焉を迎えることになる。

なぜ、丸山家のみが現在まで青木花見で養鯉を続けることができたのか。それは先代・忠雄氏の力によるところが大きいであろう。大町市で生まれ育った忠雄氏は、十七歳の時、丸山家の養子となった。彼が現役で働いた昭和三十年代から平成にかけては、丸山家にとって最も困難な時代だったといっていい。切鯉(三年目以上の鯉)の販売だけでなくニジマス・イワナの養殖・販売へも手を広げ、近代化・量産化のために多大な設備投資を強いられた。養殖池の造成・改築、排水路の整備、水源確保のための井戸の掘削など、戦後の丸山家の歴史は土木工事の歴史でもあった。

冒頭の風景*も、当時の家人には満喫できる程の心の余裕はなかったかも知れない。取材時、こちらが古い写真を所望すると忠雄氏は、ほとんど残っていないと思う、と言った後、「写真を撮っている暇なんか無かった」と続けた。常に気の抜けない生き物相手の労働に長年耐え、家業を守りつつ経営を維持するための厳しい決断を繰り返してきたであろう男の、有無を言わせぬ顔がそこにはあった。(青木花見地区公民館報『ふれあい』令和2年度第4号より転載、*風景写真)

安曇野の水

安曇野という地名を聞いたとき、黒澤明監督の『夢』という映画に出てくる、河畔に佇む水車小屋の風景をイメージされる方も多いでしょう。そこを流れる万水川(よろずいがわ)。そして、その水の清冽さ。「安曇野わさび田湧水群」として環境省選定の名水百選にも選ばれたこの水は、安曇野に暮らす私どもにとってかけがえのない生命の水です。

安曇野の西にそびえる北アルプス(地元では西山と呼んでいます)。その山際にいくつもの扇状地がつらなることで、安曇野の地形の特色を作り出しています。これらの扇状地は砂礫によって構成されているため、雪解け水など北アルプスから流れ出た水は、流れ下るうちに地下に浸透して伏流水となります。そして、その水は扇状地の末端で再び地上へと湧き出します。それがこの地域に日本屈指の湧水群を生み出したのです。

古来、信州では湧き水の出る低湿地のことを「ケミ」と呼んでいました。私どもが店を構えるこの青木花見(あおけみ)という地区の名もそれに由来したものです。この地域では、日量70万トンといわれるその豊富な湧水を使って、大正時代からワサビの栽培が盛んに行われ、日本一の規模を誇る「大王わさび農場」を始め、現在では全国的に有名な産地となっているのは皆さんもご存じの通りです。

実は、それ以前からその湧水を利用して行われていたのが、私どもの先祖が手がけた鯉の養殖だったのです。季節による温度変化が少なく、よく澄んだその水は鯉の飼養に適していました。そして、その水は今も変わりなく当店の養殖池の鯉やニジマスや岩魚たちの生命を豊かに育んでくれているのです。

PAGE TOP